暁斎略年譜


*1872年(明治5)以前は太陰暦、それ以後は太陽暦による。

1831 天保2  1歳
4月7日、下総国古河石町(現・茨城果古河市中央二丁目
3番51号)に、父・河鍋記右衛門(古河の米穀商亀屋の
次男、土井藩の河鍋喜太夫信正の養嗣子となる。)
母・とよ(石見国浜田藩士・三田某の娘)の次男として
生まれる。幼名・周三郎。

1832 天保3  2歳
父は江戸の定火消同心・甲斐氏の後を継ぎ甲斐記右衛門
と称し、本郷御茶の水の火消屋敷(現・本郷三丁目1番地、
順天堂病院の場所)に居住。一家も父に従って江戸へ出る。

1837 天保8  7歳
浮世絵師・歌川国芳の画塾に入門して絵を学ぶ。

1839 天保10  9歳
梅雨による出水時、神田川で生首を拾い写生したという。

1840 天保11 10歳
狩野派の前村洞和愛徳の門に入って学ぶ。

1841 天保12 11歳
洞和の病気により、その師、駿河台狩野派の洞白陳信(とうはくのりのぶ)に入門する。

1849 嘉永2 19歳
修業を終え、洞郁陳之(のういくのりゆき)の号を与えられる。

1850 嘉永3  20歳
11月、秋元薄の絵師・坪山洞山(洞白門人)の養子となり、坪山洞郁と称する。
二年後、素行不良により坪山家から離縁される。

1855 安政2  25歳
10月、安政大地震で仮名垣魯文と出会い、鯰絵を描き、板元に大利もたらす。
このころ蒔絵師菱田氏のもとで下絵をかく。

1857 安政4  27歳
鈴木其一の次女・清と結婚。父の希望により河鍋氏を継ぎ姓とした。

1858 安政5 28歳
このころから狂画を描き始め「狂斎」と号す。生計のため扇屋伊勢新の勧めによるという。

1859 安政6  29歳
駿河台狩野洞栄(とうえい)とともに、芝増上寺宝蔵院の黒本尊院殿内絵画の修復に参加。
8月11日、妻・清病没。その後北豊島郡鹿浜村の農、榊原氏の娘・登勢(とせ)と再婚。

1860 万延1 30歳
仮名垣魯文の口上を添えた錦絵「今昔未見生物猛虎之真図」や魯文の『滑稽富士詣』に口絵を描く。次男(長男は夭折)周三郎(後の暁雲)生まれる。
この年、父・記右衛門、妻・登勢続けて死去。

1862 文久2 32歳
8月、兄直次郎死去。絵本「鷹鑑」初編三巻刊。明治初年に二編二巻を追刊。

1863 文久3 33歳
4月2日、版元・恵比須屋庄七をともない、見世物の象の写生をする。

1864 元治1 34歳
1月22日、愛宕山の狂歌稗のため大黒えびす弁天を描く。「釈迦八相倭文庫」に挿絵をかく。

1865 慶応1 35歳
5月、信州旅行。門弟・杉本留吉同行。7月、戸隠神社中院の天井に竜図を描く。

1866 慶応2 36歳
12月、本郷金杉町の火事で自宅が類焼。
この年、深大寺天井画制作か。

1867 慶応3 37歳
輪王寺宮家の家臣・大沢行衛の娘・近(ちか)と結婚し湯島四丁目10番地に住む。
12月10日(慶応四年1月4日)娘・とよ(後の暁翠)生まれる。

1870 明治3  40歳
10月6日、上野・不忍弁天の長蛇亭にて、俳諧師・其角堂雨雀主催書画会で描いた戯画により、逮捕、投獄される。牢中で重い皮膚病にかかり、一時釈放されるが、再入牢。

1871 明治4  41歳
1月30日、苔五十の刑を受けて放免。号を暁斎と改める。
5-10月、修善寺温泉江戸屋喜平方で静養。沼津の母を訪問。

1872 明治5  42歳
8月10日、母・とよ没(84歳)。このころから開化物の版本の挿絵を大いに描く。

1873 明治6  43歳
ウィーン万国博覧会へ大幡「神功皇后・武内宿禰の図」を出品。
5月1日、両国河内楼の書画会で200枚描く。

1874 明治7  44歳
3月、湯島神社に額絵を奉納。横浜で仮名垣魯文が発行した初の滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」(1-3号)に挿絵を描く。

1876 明治9  46歳
5月21日、中村楼の書画会で席画を描く。9月、フランス人実業家エミール=ギメ、画家フェリッタス=レガメーが自宅を訪問。レガメーと互いの肖像を描きあう。
11月、川越・小ケ谷村の内田斧右衛門を訪ねて、多数作画。この年、岸田吟香と足利の田崎草雲を訪ねる。

1877 明治10 47歳
滑稽諷刺雑誌の興隆とともに、魯文の関わる雑誌の表紙や挿絵をさかんに描く。

1878 明治11 48歳
東松山、飯能、名栗方面に旅行し作画する。

1879 明治12 49歳
5月より門人・土屋晩春を従え、川越、伊勢崎方面へ旅行。8月18日、新富座で9月から上演される夜芝居、河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』のための絹張行灯絵を担当。このころ、湯島霊雲寺の法弟となり「如空」と号する。

1880 明治13 50歳
3月、成田山奉納額「大森彦七、鬼女と闘う図」を制作する。6月30日、仮名垣魯文より守田勘弥へ贈呈の新富座引幕を二見朝隈の写真楼上で描く。

1881 明治14 51歳
第二回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」「花鳥図」など4点出品。「枯木寒鴉図」は妙技二等賞を受賞し、榮太楼主人細田安兵衛が百円で買い上げ評判となる。この年、湯島四丁目22番地へ移転する。また英国人建築家・ジョサイア=コンドルが入門。『暁斎楽画』等一連の絵本が版行される。

1882 明治15 52歳
10月、第一回内国絵画共進会に「風神」「雷神」を出品。

1883 明治16 53歳
6月、第一回パリ日本美術縦覧展に「龍頭観音図」を出品。
コンドルに「暁英」の号を与える。

1884 明治17 54歳
5月、コンドルと鎌倉旅行をする。第二回パリ日本美術縦覧展に「黄石公図」「鷲猪ヲ取ル図」「山姥図」などを出品する。8月、狩野洞春秀信(前名・洞栄)死去。臨終に際し、画技遵守を頼まれ狩野永悳立信に入門する。

1885 明治18 55歳
7月26日、妻・近、逝く。8月1日、コンドルと日光写生旅行をする。

1887 明治20 57歳
7月、瓜生政和「暁斎画談」刊行。
8月、沼津の本光寺(甲斐氏の墓所)に「枯木寒鴉図」の碑を建立。
この年、ブリンクリーの紹介で、英国人画家・モーティマー=メンピスに会う。
11月、下谷根岸金杉194番地に移転。

1888 明治21 58歳
東京美術学校教授依頼のため、岡倉天心、フェノロサの来訪を受ける。
10月1-18日、沼津で母の墓参、「枯木寒鴉図」の碑を見る。

1889 明治22 59歳
4月26日、胃がんのため、コンドルらが見守るなかで死去。谷中の瑞輪寺正行院(しょうぎょういん)(谷中三崎南町64番地、現・谷中四丁目1番6号)に葬られる。
法名・本有院如空日諦居士。

山口順子作成(参照:飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』(ぺりかん社、1984年)板橋区立美術館『河鍋暁斎』展(1985年)江戸東京博物館『河鍋暁斎と江戸東京』展(1994年)図録等)